転換期におけるボヘミアのウランガラス

アンナゲルプとエレオノーレングリュン

 

ボヘミアにおけるウランガラスの近代の歴史は、19世紀の最初の10年に端を発します。その先頭に立っていたのは、F.キルヒハイナーなどの有名な作家たちでした。当時、ボヘミアの二つの地域において、ガラス溶解およびガラス着色のための決定的な技術が新しく開発されました。南ボヘミアでは、ヨーゼフとヨハンのマイヤー親子のガラス工場、1816年あたりからはゲオルゲンタール及びジルバーベルクのブコイのガラス工場。北ボヘミアでは、ヨハン・ポール率いるノイヴェルトのガラス工場と、アントニーヴァルト、クリスティアンスタール、クラインイーザーヴィルヘルムスヘーエのリーデルの工場で、新技術の開発が進んでいたのです。

ウランガラス開発の突破口となったのは、高名なドイツの化学者マルティン・ハインリッヒ・クラップロート(1743−1817)の仕事でしょう。彼は、エルツ山脈(チェコとドイツザクセン州の境をなす山々)で採れる瀝青ウラン鉱におけるウラン化合物を発見し、早くも1789年には、ガラスと釉薬の着色がウラン化合物により可能であることを証明していました。
ウランガラス開発が行われたという最古のはっきりした証拠は、アントニーヴァルトのツェンクナーの製造所で働いていた工場長フランツ・クサファー・アントン・リーデル(1782−1844)の業績に見いだされます。彼については、「当時ボヘミアでは数少なかった、イギリス式のアベンチュリンガラス(金梨地ガラス)製造技術に習熟していた人間のひとりであり、酸化ウランで着色したガラスの発明に寄与した」と言われています。珍しい蛍光色と二色性をを持つ、もっとも有名なウランガラスの名称も、リーデルによるものです。「アンナゲルプ」(アンナの黄色)と「エレオノーレングリュン」(エレオノーラの緑)は、フランツ・リーデルの二人の娘にちなんで名づけられたのです。

しかし、黄色と緑色のウラングラスの工業生産は、フランツ・リーデルの甥であり娘婿であるヨーゼフ・リーデル(長女アンナマリアの夫)によってはじめて導入されました。後に「イーザー山脈のガラス王」と呼ばれるヨーゼフ・リーデルは、アントニーヴァルトの伯父フランツのもとで、工場長秘書として修行を積んだ後、、1834年には、その少し前に創立されたばかりだったクラインイーザーのガラス工場の管理を引き継ぎました。
新しい色付きガラスの開発は、当時主流だったビーダーマイヤー様式や後期ロココ様式に必要とされていました。色つきガラスを開発するため、ボヘミアおよび他のヨーロッパの大多数のガラス工場で、さまざまな実践的な試みが行われていました。したがって、ウラン化合物を用いたガラス着色の知識が他の工場にあっという間に広まったことは、驚くに値しません。これに加えて、ガラス製造業に携わる家族の親戚たちもまた、次々にウランガラス製造に寄与するようになりました。リーデル家とノイヴェルトのポール家、南ボヘミアのマイヤー家は血縁関係にあったので、職人の経験から得られた知識をお互いに直接伝授しあったわけです。
1830年代ボヘミアでウランガラスが製造されていたということは、ウラン調合品が作られていたこと(1832年プラハのバフカの工場にて)、ガラス製品(1834年)、文献、ガラス業界の手紙(1839年ノイヴェルト)などによって、充分に証明されています。

ボヘミア産のウラングラスのなかでも、もっとも古く製造されたものについては、ヴァルター・シュピーグルの鑑定があります。それは1834年の年号が入ったアンナゲルプの嗅ぎ煙草入れ(Schmalzlerglas)で、現在は個人のコレクションに属するものです。シュピーグルの鑑定では、これはボヘミア森(バイエルンとボヘミアの間にある山地)産であるということですが、ボヘミアの他の地域の産出ではありえないと断言は出来ません。というのも、嗅ぎ煙草入れは当時、北ボヘミアのノイヴェルトなどでも作られていたからです。チェコの博物館にある、生産された時期がはっきりしているウラングラス製品は、1840年代に作られたものがほとんどです。

南ボヘミアでは、1840年ごろに作られた、ウラン着色による黄色と緑色のグラスを見ることが出来ます。アイスナーの製法本によると、ボヘミア森のガラス工場では、1840年の6月から8月にかけて、「カメレオン」と「ゴールドクリスタル」と名づけられたウランガラス融解物が溶かされたということです。



1836年より、ヨハン・マイヤーがヴィンターベルクそばのアドルフ工場で、フランス風のフォルムや装飾の型押しガラスの製造を始めました。この製造の過程でも、アンナゲルプとエレオノーレングリュンのガラスがやはり作られました。

古い時代においては、ウラン着色料は、まずまちがいなく瀝青ウラン鉱の浸出とUranateへ加工するというクラップロートの手法によって、直接ガラス工場で得られていました。30年代には既に、先述したプラハ出身のヴェンツェル・バフカの会社のような納入業者が存在していました。他にも、プラハのF.X.ブローシェやJ.ピッチュマン、ヴィーンのF.エドマイヤーなどの化学工場が、Natriumdiuranat Na2U207(黄ウラン鉱)と、緑のUranyluranat U308(瀝青ウラン鉱)を、ガラス産業に供給していたのです。ヨアヒムスタールの王立ウラン工場は、1853年になって初めて設立されました。

ウランガラスを溶解するのは、当初は容易なことではありませんでした。不純物を含む原料と、木材で加熱する「ボヘミアの溶解炉」の厳しい温度条件のために、溶解のプロセス全体が複雑なものでした。アイスナーが1840年7月10日に、製造法を書いた本に次のように記しています。「カメレオンガラスは、Leuterungの際汚ならしく、つやもないように見える。そこで、何度も繰り返し吹いて処理することで(10回から24回くらい)、この状態に対処する」。

この技術的な問題は、近代的なジーメンスの蓄熱式を用いた手法によって、1867年以降、ようやく完全に解決されました。木材をガス化して加熱するタイプの、近代的な炉としては初期のもののひとつが、クラインイーザーのヨーゼフ・リーデルによって作られました。

濁った青緑色をしたガラス溶解物、緑玉髄は、1831年プラハで開かれた州博覧会にて、ハーラッシュのガラス工場によって新製品として出品され、人々の前に初登場しました。しかし、プラハの工芸博物館にある1834年製の小さな容器を鑑定および放射線測定した結果から推定されるように、これは、多量の曇りガラスにかかわる問題に過ぎません。この曇りガラスの着色には、銅またはクロム化合物が使われており、ウランの利用によるものではありえません。酸化ウランで着色された緑玉髄ガラスは、アラバスターガラスやオパールガラスとのつながりにおいてはじめて見られます。リーデルとポールの製法本では1846年、アイスナーの製法本では一年後の1847年に、緑玉髄の製法が記載されています。

1850年以降、ウラン化合物による着色は一般に知られるようになり、普及しました。この着色法は、ヨーロッパおよびアメリカのたくさんのガラス工場によって使われた。北アメリカの文献では、ウランガラスは「ワセリンガラス」とも呼ばれています。製造法もまた、やはり専門的な文献(たとえば1868年のボンテンプの著書、1877年ペリゴットの著書など)の中で公表されました。

その他のイオン色素、分子色素(硫黄、炭素、カドミウム硫化物)、コロイド色素(銀、金)などの化合物との組み合わせによって、透明および曇りガラス溶解物のさまざまな緑色、黄色、オレンジ色から金茶色に至るまでの色調が、次第に開発されていきました。セレンと酸化ウランの組み合わせで彩色された、蛍光を持つばら色のガラスは、この時代のもっとも興味深い発見のひとつです。1893年、このガラスをF.ヴェルツの会社がテプリッツの僧院の墓に使用し、特許を得ました。オパールガラスとの組み合わせと3倍の工程を踏む手法によって作られたこのガラスは、本体が光り輝くゆえに「シャンパン」と呼ばれ、非常に好まれたものです。
ボヘミアのウランガラスの時代は、1830年代から第二次大戦まで、ほぼ100年近く続き、当時の芸術、様式の流行すべてを実際に経験することになりました。ビーダマイヤーおよび後期のロココ期には、ウランガラスは主に透明な物体の製造に使われていました。見事に洗練された装飾は、原則的には、彫刻や絵付けを補うものに過ぎませんでした。また、無色のガラスの上に薄く皮膜状に加工して被せるのにもウランガラスが使われました。もっとも多かったのは、錫の上に白い釉薬をかけたもの(Zinnemail)、コントラストに富んだルビーガラス、珍しいところではLithyalinガラスの上に被せて使用されています。赤い着色液と組み合わせると、またおもしろい効果が得られました。ハラーシュのガラス工場の製品に、完全無欠なウランガラス加工技術の粋を見て取ることができます。それにとどまらず、今日ではコレクターアイテムとして人気の高い、いわゆるボヘミアの「友情の杯」と呼ばれるグループに属するウランガラス製のグラスも特筆に値します。アール・ヌーヴォーの時代、1905年ごろには、ハラーシュのガラス工場はオパールグラスの素地、すなわちウラン彩色された緑玉髄ガラスと、剣の錆色を出す技術とを組み合わせていました。

宝飾産業においては、人口輝石のガラス原料となるガラス棒を作るのに、多くはウランガラスが用いられました。ガラス製品製造業の枠内では、ウランガラス溶解物からたくさんの小さな日用品が作られた。例をあげれば、化粧道具一式や櫛を入れておく皿、灰皿、文鎮、水パイプのマウスピース、金属と組み合わせて作られたもの、ガラス製のドアベルなどが生産された。
化学工業の発達とともに、もともとは高かったウラン調合品の値段は次第に降下しました。20世紀に入ってから30年代ごろまでは、日常生活で使用するのにふさわしい、平凡なプレスガラスの着色にもウランが使われています。リーデルのガラス工場だけは、後期次大戦前になってもまだ、ヨアヒムスタール産の黄ウラン鉱(Natriumdiuranat)を年間5トン消費していました。第二次大戦中に原子力研究におけるウラン需要が高まり、そのためガラス産業でのウラン使用は厳しく制限されるようになりました。50年代に入ると、かなりの制限付きではありながらも宝飾産業ではウランガラス溶解物が使用され得たのに対し、日用ガラスの生産にウランガラスを使用することは禁止となりました。60年代になってからは厳しい規則の緩和が始まり、それ以来、ガラス産業においてはいわば「希釈された」ウラン化合物、すなわち放射性同位元素235が取り除かれているものが、再び使用可能となりました。
1972年から73年にかけて、私の発案により、ウラン化合物のみを利用したり、またはウラン化合物と他の物質や酸化物と組み合わせて利用し、実用に耐えるウランガラスの融解がまた始められました。ガラス作家、パヴェル・ハラヴァは、新製品の試作の段階で、抑えた蛍光(ウラン黄水晶、ウラン紅水晶、ウランアクアマリン、ウランスモークガラス)を使ったおもしろい色のニュアンスを活かした、これらのサンプルを利用しています。同時にこれらのガラスは、自然化学的に調査されており、人体の健康にも問題がないことが証明されています。「希釈」ウラン原料の利用と、ガラスが放射能を吸収するという事情によって、少量のウラン化合物に含まれるトルコブルーなどの特殊な色ガラスの製造が再び可能となったのです。

ルドルフ ハイス

WELTKUNST 1991年 8月15日号 ミュンヒェン