ツヴィーベルムスターの模倣と贋作

マイセンの図柄の多くは、他の製作所や工場によって模倣されていますが、ツヴィーベルムスター(ブルーオニオン)ほど、多く模倣されている物はないでしょう。

たとえばKPMベルリンは、1770年頃、創業して間もなく、このツヴィーベルムスターを使用し始めています。当初、”インド風絵画”と名付けられ、後に、人気があり、宣伝効果の高いマイセンの図柄として、”ツヴィーベルムスター”という名を使っています。

ほぼ同時期、フュルステンベルクにある公(爵)立ブラオンシュヴァイク磁器製作所も、その図柄を取り入れています。

18世紀の最後の四半世紀、マイセンはこの柄の生産数をだんだん減らしたことがありましたが、双方の製作所は、その後、現在もなお、ツヴィーベルムスターの食器を製造しています。

19世紀の前半、ツヴィーベルムスターは、まだそれほど需要がありませんでしたが、1860年以降になって、産業化の波に乗り、貴族の生活様式を真似ようとしていた裕福な階級によって、にわかに人気を博することになります。

マイセン磁器と装飾性の高い家具を持っていることは、そういった生活様式のいわばステータスであり、それにはツヴィーベルムスターが、特に適していると思われたのです。需要が伸び、いくつかの磁器製作所が、この柄の使用権を望みました。そして、磁器であれ、陶器であれ、また印刷であれ、手描きであれ、あらゆるものにツヴィーベルムスターを取り入れて、そのコピーを携え、ドイツ、オースト
リア、スカンジナビア、フランス、イギリスの市場にやってきたのです。

中でもマイセン市にある、陶器製作所として1863年に工場を創立し、後に株式会社となったカール・タイヒェルト製作所は、マイセンの名でツヴィーベルムスターを販売して良いという、特別有利な立場にありました。

”C.タイヒェルトのマイセン窯とシャモッテヴァーレ工場”は、1879年に磁器も製造するようになりましたが、当時は単にマイセンの名が刻印されているに過ぎませんでした。ツヴィーベルムスター食器は、(1879年に出された工場の広告にも書かれているように)メインの生産品でした。

1882年12月23日、タイヒェルトは、王立簡易裁判所にマークを届け出ましたが、登録されたマークは、”ツヴィーベルムスター市場”に多くの混乱を招きました。マイセンという名前を使ったことで、それが王立磁器製作所のもっとも有名なツヴィーベルムスターであるかのような印象を与えてしまったのです。

その上、C.タイヒェルトの会社は、今日まで、手作業でははるかにまさる製作所として”その場にふさわしいもっとも古い製作所”という、厳密に取れば正しい表現で宣伝をしたのです。のちに骨董取引の間では、タイヒェルトの生産品のために、”王立マイセン”に対して、”シュタット(町の意)マイセン”という名ができました。

今でもアンティークマーケットで見つけることが出来るほど、その量から察しても、シュタットマイセンがツヴィーベルムスターを伴って、活発に営んでいたことは間違いありません。けれども、マイセンというマークが付いているからといって、全ての製品がマイセンの町から来た物とは限りません。

1885年、”マイセン窯とシャモッテヴァーレン工場”は、カールスバードから80Kmのところにある、ボヘミアのアイヒヴァルト(樫の森)にあるティンケルの磁器工場を買い取りました。

その工場は、そこで製造した食器にも同様に、楕円の中に”マイセン”の文字を入れ、その下に星を印したマークを、1886年11月19日に保護マークとしてオーストリアで登録しました。しかし、この事業は思っていたほどにはうまくいかず、1899年にそのマイセン工場は作業所を売らなければなりませんでした。

そして、1871年に、B.ブロフという、すでにアイヒヴァルトに磁器製作所を経営していた人が、その後を引き継ぐことになりました。彼は同時に、公然とその保護マークの登録を転義で用い、通常10年とされている契約を更新するために”マイセン”マークを継続使用する権利をも買い取りました。

”C.タイヒェルトのマイセン窯とシャモッテヴァーレ工場”は、”C.タイヒェルトのマイセン窯と磁器製作所”名称を変え、ドイツの中でその商標を保護し、引き続きそれを使い、アイヒヴァルトの製品と識別するために、大量に ”マイセン”という名や、製造会社の記号、”Made in Germany”または”Germany”と付け加えていきました。

1884年には、ケルン(Coelln)-マイセンに新しく設立した”エルンスト・タイヒェルト窯と磁器製作所”もツヴィーベルムスターを伴った磁器の製作を引き受けました。そしてその最初の2年には、EとTの字を組み合わせ、”COELLN MEISSEN”と刻印しました。

そして、1885年、カールの兄弟のひとり、エルンスト・タイヒェルトは、試みとして、”E”の中に線の無い、幾分おおような、王立磁器製作所の双剣のマークを模したものを登録しました。王立磁器製作所は、商標の登録簿の中のこのマークの抹消を申し出て、長期に渡り、この会社の新しい所有者である、クリスティアンタイヒェルトと交渉し、1888年には、このマークは使われなくなりました。

王立磁器製作所は、タイヒェルトの手元にある、すでにマークを入れてしまった磁器を無駄にしないために、そのマークを取り除くことを提案しました。そして、そのマークを取り除く為に、製作所に持ちこまれた磁器は、38,148個あったと記録に記されています。

1888年以降、エルンスト・タイヒェルトの磁器工場は、”COELLN MEISSEN(ケルン 
マイセン)”または”MEISSEN(マイセン)”という刻印を付け加えた、別のマークを使うようになりました。1900年以降は、”MEISSEN”の文字は、大抵マークの下に曲線状に、やはり青色で入れられました。

 

この工場は、1923年までツヴィーベルムスター(ブルーオニオン)食器を製作していましたが、”かつてのC.タイヒェルトであった、Meissner Ofen-und Porzellan fabrik(マイセン窯と磁器工場)”が、エルンスト・タイヒェルト会社の株を買い、その作業の中にエルンスト・タイヒェルトの磁器製作を取り入れました。そのため、今日、骨董の取引上で、エルンスト・タイヒェルトが建てた工場の製作品も、”シュタット・マイセン”ツヴィーベルムスターと呼ばれています。

1929年の世界恐慌では、かつてのC.タイヒェルトである”Meissner Ofen-und Porzellanfabrik(マイセン窯と磁器工場)”は、輸出において、激しい危機に見舞われます。1928年には、100万マルク以上の売上があったのに対し、1930年前半には、10万6千マルクまで減少してしまいます。

1930年の7月、この工場は、磁器の生産を断念し、ゼルブにある、ロレンツ・フュッチェンロイターに一部を譲ります。

タイヒェルト 1885-1888

タイヒェルト 1888-1923

タイヒェルト 1900-1923

「度々表明されていた購買団体の要望に応じて、磁器工場 ロレンツ フュッチェンロイター株式会社が、マイセン磁器工場から、青色ツヴィーベルムスター食器のモデルと全ての経営生産の権利を買い取ることに決めた。」

この通告から、ロレンツ フュッチェンロイター磁器工場が、かつて王立磁器製作所から”C.タイヒェルトのマイセン窯と磁器工場”にゆだねられたツヴィーベルムスターの権利を買ったことで、それに対する見解は、たびたび文献の中にも登場しました。けれども、それは実現しませんでした。というのも、王立磁器製作所がそれらの権利を譲らなかったからです。しかし、マイセンのツヴィーベルムスターを使っていた全ての工場は、簡単にそれをコピーしていたようです。

1919年に、ドイツ磁器食器工場連盟の会員は、相互にこの柄を模倣しないことに
合意しました。ただ、”その磁器の歴史”をよく知り、マイセン王立磁器製作所の柄を第一とし、その下に位置するツヴィーベルムスターであれば、それは、例外とされました。この取り決めを引き合いに出して、フュッチェンロイターは、国立磁器製作所として、1930年、ツヴィーベルムスターの使用権に対し、異議を唱えました。

続く